カタカタカタ……。
パソコンのキーボードを叩く音が、部屋の静寂さに彩りをもたらす。
僕は基本的に、外出はあまりしない。
出かけるとしたら、まあ仕事関連か、或いは日常に必要な用事のみだ。
だからと言っても、別に部屋にいるのが楽しいわけでもなく、外に出て他者の会話を耳にするのが嫌なだけだ。
パソコンで仕事をこなしつつ、息抜きに掲示板でたわいもない会話をしたり。
あとはコーヒーをいれたり、パスタを茹でたり。
決まり切った動作を、日々こなしていく。
そんな毎日が続いていくと思っていた。
だが、ある日のこと。
仕事の都合上、外出する予定ができた。
しかも相手は女性の社長。
……はあ。
きっと……まあ、憶測だけれども。
言葉を弾丸のように放つ、バリバリのキャリアウーマンなんじゃないのか?
ああ、だから女性は苦手だ。
何でもかんでも感情論で物を言うから。
その点、機械はとても有り難い。
ちゃんとこちらの意図を汲み取ってくれるし、操作方法さえ間違えなければ、きちんと応えてくれる。
それに比べてヒトを含む動物は、予期せぬ行動をとる。
こちらのことなど、お構いなしに。
僕はパソコンでの作業の合間に、掲示板で知り合った知人に、チャットで相談した。
『トモ、仕事おつかれ。というか困ったことになったんだ。今度、女性の社長と仕事の打ち合わせをすることになったんだ』
トモ、というのは、その知人のハンドルネーム。
取り敢えず簡潔に書いた、向こうも仕事で忙しいからだ。
すると丁度、向こうも時間が空いていたのか、すぐに返信が届いた。
『おつかれ。ミライ、大丈夫か?前に女性が苦手って聞いたから』
ミライ、は僕のハンドルネーム。
『まあ色々あったからね、苦手だよ』
『ミライ、その案件、断れないのか?』
『それは無理かな。僕的には仕事関連のことは無下にしたくないんだ』
『まあ確かに、仕事だもんな。それじゃあ仕方がないよな』
『ごめんな、忙しい時に愚痴って』
『いや、俺も休憩中だったから大丈夫。それよりもミライの体調が心配だよ』
『ありがとな、心配してくれて』
『そりゃあ心配するさ、当たり前だろ』
まあ、僕には両親も親戚もいない、ということを、トモも知っているから。
だから余計に心配してくれるんだろうな。
『そうだ、ミライ。なんか御守り的なものって持ってないか?』
『え?御守り?』
……あ。
『それなら、母が生前に僕に作ってくれた、数珠みたいなブレスレットがある』
『おお、そりゃ良いじゃん。効果があるかもしれないじゃん、着けて行ったらどうだ?会話のネタになりそうだし』
良いネタというか、見るからに怪しいネタになりそうだとは思ったが。
『ありがとな、トモ。そうしてみるよ』
トモの時間をこれ以上は割きたく無かったので、受諾することにした。
そしてチャットから退出して、母が作ってくれた数珠を、クローゼットから持ってきた。
「これで上手く事が運ぶとは限らないけどな……」
僕はそう言って、ため息をついた。
そしてついに、その女社長との打ち合わせの日がやってきた。
正直に言えば行きたくない。
だが、何度かメールでやり取りしているうちに、彼女の丁寧で柔らかい文章に、勝手に相手の性格まで決め付けてはいけない、と思い直した。
僕も、もう少し安心してもいいのかもしれない……そう思った。
身だしなみを姿見で一応確認した後、僕はドアを開けた。
春先だからかな、少し肌寒い。
薄手のマフラーか何か、巻いてくればよかった。
取り敢えず僕は、他人と出くわさないような道を通って、車に乗り込んだ。
そしてエンジンをかけ、予め決めておいた待ち合わせ場所に向かった。
車なり、パソコンなり、機械は助かる。
バグでも発生しない限り、緻密に働いてくれる、こちらの期待通りに。
相反して人は期待通りには動いてはくれない。
まあでも、その曖昧さが、人間らしくて良いのかもしれない。
そうこう考えているうちに、目的地の喫茶店に到着した。
僕は駐車場に車を停めて、喫茶店の扉を開いた。
カランコロン、というドアベルの音とともに、店員がやってきた。
「いらっしゃいませ。何名様でしょうか」
「二名で予約をしている、柏崎です」
「かしこまりました……ああ、柏崎様ですね。承っております、こちらの席へどうぞ」
店員は、マニュアル通りの決まりきった言葉と笑みで、僕を案内してくれた。
えーと、確か。
メールでは先方は、ピンク色のコサージュを着けている、と書いてあったはずだ。
「こちらの席へどうぞ」
そこには、薄手のベージュのカーディガンに、花柄のワンピース。
ショートカットの黒髪に、熱心に本を読んでいるつぶらな瞳。
体型が少しだけ丸くて、温和な印象を受けて。
思わず僕は立ち尽くしてしまった。
その女性は、僕の視線に気が付いた様子で、本をテーブルに伏せて、こちらを見つめた。
「あなたが、柏崎さまでしょうか」
穏やかに微笑む女性に、暫く僕は無言でいたが、ハッと我に返った。
「あ、はい、僕が柏崎です。あなたが先日メールでのやり取りをした、増井……洋子さんでしょうか」
「ええ、そうです。さあ、どうぞお掛けになってください」
彼女……洋子さんに促され、僕は席に着いた。
「そうだ、まだ名刺を交換していませんでしたね。改めまして、僕は柏崎翔と申します」
「あ、私も名刺を……よろしくお願いいたします」
ぎこちない仕草で名刺をもらったが、その仕草が可愛らしいな、と思った。
……って、何を考えているんだ、僕は。
「あの……もしかして、体調がすぐれませんか?」
心配そうに見つめる瞳。
「あ、いえ。実は昨日、夜更かしをしてしまいまして」
僕は咄嗟に誤魔化した。
「あら、そうだったんですね。真澄……私の妹も、たまに夜更かしをするから、ちゃんと寝ないとダメよ、って注意しているんですよ」
「なるほど、妹さんがいらっしゃるんですね。こんなに良いお姉さんを持てて羨ましい限りです」
僕は褒め言葉のつもりで言った。
すると。
「……妹の、真澄は……」
一気に洋子さんの表情が曇りだした。
まずい、失言だったか?
「あ、話が脱線しましたね、すみません。早速打ち合わせに入りましょうか」
誤魔化そうとしたが、遅かった。
「あ、はい。ですが、妹の話をしてから、本題に入っても良いでしょうか」
「あ……ええ、もちろん」
僕たちは、コーヒーを注文して。
そして洋子さんは話し始めた。
「妹の真澄は、いわゆる才色兼備でして。街を歩けば、ほぼ全ての男性が振り向くほど……と言ったら過言ですが、姉の私から見たらそれくらいなので。
ちなみに妹の職業はモデルです。大手企業の新作の服を着て撮影して、女性向けのファッション雑誌に掲載されています。
デザインに関して精通しているので、私に、よく服についてのアドバイスをしてくれます。
ただ最近、ものすごく悩んでいるみたいで。私が話しかけても、自分で考えるから放っておいて、の一点張りなんです」
……なるほど、そういうことだったのか。
「何かお困りのことがあれば、僕も相談に乗りますよ」
ちょっとだけ、洋子さんに惚れてしまっていたのかもしれない。
勢いで、普段なら言わないようなことを僕は口走った。
すると。
「え?……ほ、本当に、ですか?」
洋子さんは目を潤ませて、少し涙をこぼした。
彼女は急いで、ハンカチを取り出し、涙を拭っていた。
……そんなに悩んでいたのか。
「えっと、その……柏崎さん、相談に乗っていただけますか?」
「はい、まだまだ時間もあるので、相談なら聞きますよ」
妹の真澄さんが、どんな女性かは知らないが、洋子さんにとって大切な妹さんなのだから、僕の力が及ぶ範囲内なら、聞きたいと思った。
「柏崎さんは、ヤマタノオロチをご存知でしょうか」
「えっと……ああ、幼い頃に絵本で読んだ記憶があります。毎年、夫婦の娘を喰らう、怪物みたいな存在ですよね。
それで、男の神さまがヤマタノオロチをやっつけて、娘を助けた……という話だったと思います」
「そうです、よく覚えていらっしゃいますね。実は、今でも存在しているんです」
……え?
僕は思わず面食らった。
「あ……いえ、ヤマタノオロチと言っても、ネットワーク上の存在です。いわゆるコンピュータウイルスなんです」
「ああ、驚きました。実際の生物だと思ってしまいました」
僕は思わず苦笑した。
「はい、言葉足らずで申し訳なかったです。そのPCウイルスは、様々な女優、アイドル、モデルなど、巷で有名な女性のブログやサイトを乗っ取り、
画面上にヤマタノオロチの画像だけ残し、最終的にはブログやサイトを閉鎖せざるを得なくなるんです。
そして今、乗っ取られているのが、妹の真澄の、同期のモデルさんのサイトなんです」
「なるほど……なぜ女性のブログやサイトばかり狙うのか、不思議ですね。
その仕組みは分かりませんが、ウイルスならば、何らかの除去ソフトなどで対応はできませんか?」
「それが、どのソフトウェアを用いても消えないそうです。
あ、ちなみに妹の真澄はプログラミングにも詳しくて、色々と調べてみたそうですが、ダメだと言っていました。
なので、私が話しかけても、ものすごくイライラしていて。私も力になりたいのですが、無力で。どうしたらいいのか、もう分からなくて」
そう言うと、洋子さんはハンカチで涙を、またもや拭っていた。
正直に言うと、僕は、他人のことには一切首を突っ込まない性分だ。
いつも恩を仇で返される、期待しては裏切られる。
そんな人生だったからだ。
でも、直感ではあるけれど、洋子さんの問題は、そして重荷は、相当なものだと思った。
期待はしていない。
見返りも要らない。
だけど、力にはなりたいと思った。
「もしよろしければ、そのヤマタノオロチに感染したパソコンを、見せてはいただけませんか?僕も興味本位で調べてみたいと思うので」
すると、パアッと、洋子さんの表情が明るくなった。
「え……、あの、本当によろしいのでしょうか?」
「はい。まあ、たまには仕事以外でも、刺激が欲しいので。僕は調べてみるだけですが、それでもよろしければ」
「ありがとうございます。あ、すみません、仕事の打ち合わせの邪魔をしてしまって。お店の迷惑になってはいませんでしょうか」
「それは気にしなくていいですよ。この喫茶店、そんなに堅苦しい所ではないので。
さっき頼んだ、翡翠の雫というネーミングのコーヒーも、僕は愛飲していますし」
「ひすいのしずく……素敵な響きのコーヒーですね」
「あと、僕はよく、帰りに豆を挽いてもらって、自分の家でもコーヒーを飲んでいるくらいです」
「そうなんですか。私もお土産に、挽いてもらおうかしら」
そして、仕事の打ち合わせが終わった後、洋子さんはタクシーで、僕は車で家に帰った。
我が家に着くと、僕はシャワーを浴び、クラシックを流した。
ムソルグスキーが好きだが、彼は晩年、病院で孤独に亡くなったと聞く。
僕は今、ひとりきりだが、将来はどうなるのだろうか。
何とか生活の糧は稼いでいる、でも。
そう思うと、一気に虚しさを感じた。
その形容しがたい感情は、幼い頃からずっとある。
過去の記憶をかき消すようにして、僕はソファに横になって、軽く微睡んだ。
パソコンの通知音で、目が覚めた。
確認すると、洋子さんから、メールが届いていた。
『柏崎さん、さきほどはご丁寧にありがとうございました。私は古本業で、パソコンに不慣れなものです、サイト作成に関しては、右も左も分からずでした。
ですが柏崎さんのデザインがとても素敵なものでしたので、これからウェブサイト作成を依頼させていただきたいと思います。
あとは、ヤマタノオロチのウイルスの件ですが、妹の真澄と話し合いまして、来週の日曜日なら空いているとのことです。
柏崎さんのご都合を、またお聞かせください』
洋子さんのメールを見て、その柔らかな言葉遣いで、心が温まった。
さっきも、昔からよく見ていた悪夢を見たからだった。
そして僕はキーボードのキーを叩いて、返事を送信した。
そして日曜日。
この前の喫茶店で、洋子さん、真澄さん、真澄さんと同期のモデルさん、三人と会うことになった。
洋子さんは薄いグリーンのカーディガンに、花柄のワンピース。
真澄さんは、長いストレートの黒髪にサングラス、黒いシャツにジーンズ。
モデルさんは由梨さんといって、茶色の髪をふんわりと巻いて、サングラスに、ピンクのシャツとジーンズだった。
僕と洋子さんは翡翠の雫、真澄さんはレモンティー、由梨さんはローズヒップティ―を注文した。
注文が終わった後、真澄さんはジロリと僕のほうを見た。
「お姉ちゃんから聞いたわよ。柏崎さん、あなた本当に由梨を助けられるワケ?」
サングラス越しの真澄さんの、突き刺さるような目線は、僕にとっては、ものすごく苦手なものだった。
「こら、真澄!柏崎さんは仕事の時間を割いてまで、私たちに付き合ってくれているのよ?どうしてそんな口の訊き方をするの?」
洋子さんは真澄さんに注意するが、その言葉は何処へやら、真澄さんは僕をずっと睨みつけ続けている。
すると由梨さんは、鞄からラップトップのパソコンを取り出した。
「これが、ヤマタノオロチです。この状態でお店の回線を使うと迷惑だと思うので、テザリングしていますが、ご覧になってもらえますか?」
由梨さんは、少し甘ったるい声で、僕にパソコンの画面を見せてきた。
そして僕は画面を見て、驚いた。
ヤマタノオロチのような怪物の画像、そして意味不明のアルファベットの羅列。
更に気になったのが、文字を入力することができる、入力フィールド。
「これがウイルスなんですか?最近の人工知能のサービスと似ていますが」
「はあ?サービス?ふざけないで!正真正銘のウイルスなんだから!」
真澄さんは憤りながら僕に突っかかってきた。
「真澄!ここはお店よ、静かにしなさい!」
洋子さんは真澄さんの扱いに慣れているのだろうか、洋子さんの一喝で、真澄さんは子犬のようにシュンとなって黙った。
一方で、僕はアルファベットの羅列が気になっていた。
「えーっと……」
僕はメモ帳を取り出すと、そのアルファベットを書き写した。
「何してんの?そのアルファベットは、バグか何かだと思うけれど」
真澄さんはまたもや突っかかってきたが、洋子さんの寛大さを見習って僕もスルーした。
そして、その四十六文字のアルファベットを、順番を変えては並べて、を繰り返してみると。
I need
maidens blood more until someone finds my mother
一つの英文が出来上がった。
「え……?まさか、こんな文章が書かれていただなんて……」
真澄さんは目を見開いていた。
「さすが柏崎さん、すごいです。相談して良かったわ」
洋子さんは、にこにこと笑って僕を見る。
その笑顔を見て、僕は嬉しく感じた。
「アナグラムかもしれないと思いまして。ビンゴでしたね。ですが、それが分かったとしても、本題に入らないと。
この入力フィールドに、何かしらの文章を入力してみましょうか」
「確かにそうですね。あ、ひらがなで入力してみてください。それ以外だと反応しないので」
由梨さんのアドバイスで、僕はひらがなでフィールドに打ち込んでみた。
『おまえはいったいなにものだ?』
そしてエンターキーを押すと。
『我は荒ぶるヤマタノオロチなり』
スピーカーから、低い男性の声が聞こえてきた。
僕はそのリアリティのある音声にびっくりしたが、他の三人はもうウンザリ、という表情をしていた。
「試しに、もう少し言葉を打ってみましょうか」
そう言って僕は、フィールドにひらがなを入力してみた。
『やまたのおろち、ぼくはおまえをけしさりにきた』
単刀直入に入力して、エンターキーを押すと。
『何だと?お主如きに我を消すことなど不可能だ!』
画像のヤマタノオロチは、目を赤く光らせ唸りながら、こちらに向かって口を開いてきた。
グラフィックの技術がすごいな、と感心しながらも。
本当に、ウイルスなのか?
まるで、本当に存在している怪物のようだ、と思った。
そして少し、考えを巡らした。
「……僕なりの、仮説ではありますが」
僕は三人のほうを向いて、話した。
「入力させてもらっていて、僕的には、言霊、という言葉を思いつきました」
「ことだま……」
真澄さんは、真剣に僕を見つめた。
「言霊は、日本で古くから信じられている、言葉の持っている不思議な力だと、僕は認識しています。
言葉は時として、人の心を傷つけますし、さらに精神までもを壊してしまうこともあります。
逆に、言葉ひとつで人を助ける、とてつもない救いにも成り得る。
僕は普段からインターネットの掲示板で、仕事の息抜きに、匿名の人と会話をしていますが、そこでも言葉の怖さと強さを思い知らされています。
ここからが本題です。ヤマタノオロチには、入力フィールドが存在します。ここにネット上の皆さんが、様々な言葉を打ち込んできたと思います。
そのサイトの運営者やファン、逆にアンチファン、或いは単純に、ただのいたずらや、単純に暴言を吐きたかった人。
その言葉を覚えて、人の心に溜め込まれた言葉の負の集積とも言える存在のウイルスとなった。
きっとヤマタノオロチは、当初はそれほどの猛威は振るっていなかったはずです。
ですが、言葉の力で、悪しくもここまで恐ろしいウイルスになってしまった……と、僕は思いました」
「言葉の力……確かに、それは有り得るかもしれないわね」
真澄さんは、やっと僕のことを睨まなくなってくれた。
すると。
洋子さんは僕のほうを見てほほえんだ。
「柏崎さん、ありがとうございました。ここまで真剣に向き合ってくださる方がいるとは、思いも寄らなかったです。あとは私たちで何とかします」
……え?
「そうね、言葉でヤマタノオロチを鎮められるのなら、私たちで何とかできると思うわ」
真澄さんも、意気揚々と、洋子さんに笑いかけた。
そして僕のほうを見て。
「ありがと、柏崎さん。これで由梨を助けることができる。さっきはキツい言い方してごめん。それじゃあ、私たちは撮影のスケジュールがあるから」
「あ、そうだった!急がなきゃ」
……まあ、あくまでも彼女たちの問題だ。
これ以上、僕が助ける義理はない。
そう思いながらも、アナグラムの英文の内容が、心のどこかで引っかかっていた。
そして家に戻って、僕は洋子さんに頼まれたウェブサイトのデザインを、何種類か作り始めた。
すると、いきなりメールの通知音が鳴った。
確認してみると、真澄さんからのメールだった。
文面を見て、びっくりした。
『助けてください、姉が倒れました』
洋子さんに、何かあったのか?
『真澄さん、今は一体どういう状況ですか?』
僕は簡潔に書いて、急いで返信した。
すると。
『お返事ありがとうございます。姉はうまい具合にヤマタノオロチに言葉を伝えました。が、その最中に意識を失いました。
今は県立中央病院に搬送されて、意識はまだ戻っていません。いちおうパソコンを持ってきていますが、画面上には姉の姿が表示されています。
多分インカメがオンの状態だったからだと思います』
一体どういうことだろうか。
取り敢えず真澄さんに、僕も病院へ向かう、とメールを送り、車を走らせた。
病院の待合室に、真澄さんはいた。
僕に気が付くと、急いで駆け寄ってきた。
真澄さんは、泣き疲れた顔をしていた。
「柏崎さん、お忙しいところ、来て下さってありがとうございます」
そう言うと、真澄さんは僕に向って、深々と頭を下げた。
「いえ、大丈夫ですよ。洋子さんの容態はどうなんですか?」
「今は、意識が戻っていません。医師の方も原因が分からないと言っています」
「そうですか……ちょっとパソコンを拝見してもいいですか?」
「はい、お願いします」
その画面は、洋子さんが横たわり、その後ろにヤマタノオロチがいる、という絵面だった。
入力フィールドにカーソルを合わせて、僕はひらがなを入力した。
『なぜ、そちらがわに、ようこさんがいるんだ?』
するとヤマタノオロチが、不気味な笑い声とともに答えた。
『生贄だ。この女を喰らってから、我も消えることにした』
『まってくれ。いけにえとは、きえるとは、どういうことだ?』
『そのままの意味だ。この女は言葉で我を倒そうとした。そして我は強大な力を失った。この女には、それ相応の仕返しをせねば、気が済まぬ。
この女は、こちらの世界でも、お主がいる世界でも、二度と帰らぬようにしてやる』
そう言うと、ヤマタノオロチは下卑た大笑いをして、スピーカーからは不協和音がした。
それを聞いた真澄さんは、号泣していた。
「落ち着いてください、真澄さん。まだ僕がいます。お姉さんが助かるなら、僕もがんばります」
すると真澄さんは顔をあげ、ニコリと笑った。
「……そうでしたね。ありがとうございます」
その真澄さんの表情からして、やっと僕に、心を許してくれたような気がした。
『では、やまたのおろち。おまえはそのままきえて、ほんとうにまんぞくできるのか?』
『それは一体どういう意味だ』
『ぼくはおぼえている。あなぐらむをつかって、おまえがうったえていたことを』
『……』
『ほんとうの、おまえのねがいは。じぶんのははをみつけてほしい、だろう?』
『そのことか。もう我の母神は、この世界におらぬ。どこにもおらぬのじゃ』
そう言うと、ヤマタノオロチは深いため息をついた。
『そうだったのか。ぼくも、ははを、おさないころに、なくしている』
僕がそう入力すると。
『何故だ?どうしてお主は、母を失った?』
ヤマタノオロチの質問に対して、僕は正直に答えることにした。
『あるおとこにだまされた。そして、ころされた。この、ぼくがつけている、じゅずのおまもりをのこして』
インカメラがオンの状態になっているとさっき聞いたので、僕はカメラに自分の左手首の数珠を近づけてみた。
『それがお主の、母の御守りなのか?』
『ああ。ははのおもいでになるものは、これだけだよ。それからぼくは、ひとりぼっちでいきてきた』
女性が苦手なのも、すべて、母のことを思い出すから。
だから、見ないようにしてきたんだ。
誰にも理解されたくない。
だから封じ込めていたんだ。
傍らにいた真澄さんは、泣いていた。
「ごめんなさい、まさか、柏崎さんがそんな辛い目にあったなんて、知らなくて」
「あはは、いいですよ。そんなに気にしないでください」
『お主は、母がいなくて、辛くはないのか?』
ヤマタノオロチの動揺した声に、僕は驚いた。
僕のことに対して、同情しているのか?
『やまたのおろち。ぼくはもう、のりこえたんだ。ないものは、ない。おいもとめて、どこをさがしても、しかたがない。
きっと、かあさんも、ぼくがずっとなげいていても、うれしくはない。そうおもって、ぼくは、ひとりで、がんばってきた』
『そうだったのか……だが我はお主のように、乗り越えられるのだろうか。教えてくれ、どうやたら、乗り越えられる?』
『それは』
言葉を打ちかけて、ハッとした。
画面上に、洋子さんが、いない。
そして隣をみた。
真澄さんも、いない。
誰もいない病院の待合室に一人残されて、背筋がゾッとした。
『やまたのおろち。ようこさんは、いったいどうなったんだ?』
『ああ、先程の女のことか。もう我に生贄など要らぬ、手放したまでだ』
『なぜだ?』
『お主は、あの女のことが好きであろう?そして、お主は母を亡くしている。我はそこまで愚かではない。
従って、これ以上お主から、大切な人を奪い取ろうとは思わない』
そこまで見透かされていたのか。
……恥ずかしいことだが、事実を言われて、何も返す言葉が見つからなかった。
『ありがとう、やまたのおろち。おれいに、どうやってぼくがのりこえられたのか、おしえようか』
『ああ、教えてくれ』
『えほん、というものを、しっているか?』
すると、ヤマタノオロチは、目を丸くした。
『何だそれは。聞いたことがないぞ』
『ぶんしょうとともに、えがかかれている、おもにこどもがよむ、しょもつのことだ』
そしてインターネット上の、無料で公開されている、絵本のサイトを表示させた。
すると。
『何だ、これは。こんなに心が温まるものは、我は生まれて初めて見たぞ!』
そう言って、ヤマタノオロチは目を輝かせている。
『素晴らしい、なんと素晴らしい!礼を言うぞ、お主。ようやく我の気持ちも晴れ晴れした、満足じゃ』
そして、段々と画面上のヤマタノオロチは、姿を薄くして。
画面は、元の由梨さんのサイトに戻っていた。
これで、ヤマタノオロチのウイルスは消えたのか?
僕が呆然と、PCの画面を見つめていると。
「柏崎さーん!」
真澄さんの声が聞こえてきた。
振り返ると、嬉しそうな表情を浮かべて、真澄さんが駆け寄ってきた。
「姉の意識が戻りました、一緒に病室まで来てもらえますか」
「はい、もちろん」
僕が頷くと、真澄さんは、パソコンの画面を見て目を丸くした。
「これ……由梨のサイト?もしかして……」
「はい、ヤマタノオロチのウイルスは、消えたみたいです」
「え……すごい、柏崎さん。どうやって消したの?」
「正確には、自然に消滅したと言ったほうが良いのですが、まずは洋子さんのことが心配です。ヤマタノオロチの話は、後にしてもいいですか?」
「そうでした、すみません。姉も柏崎さんに会いたい、と言っています」
そして病室に行くと。
「柏崎さん」
ベッドの上で、上半身だけ起こして、洋子さんがニコリと笑った。
「柏崎さんがいなかったら、私はきっと、意識が戻らなかったと思います。本当にありがとうございます」
「いえ、そんな。僕にできることをしただけですよ。取り敢えず洋子さんが無事で、僕も安心しました」
すると、洋子さんは、目を伏せながら言葉を紡いだ。
「あの、えっと……」
僕は、また失言したかと思って、急いで声をかけた。
「どうかなさいましたか?」
「また、お会いできませんか?仕事以外で」
「……え?」
するとそこに、真澄さんが、ニヤニヤしながら、ずいずいっと入り込んできた。
「柏崎さん。お姉ちゃんとまた会ってもらえませんか?まずは友だちとして、そして未来は……」
「ちょ、ちょっと真澄!」
洋子さんは、頬を赤らめながら、真澄さんを牽制していた。
……なんだ、そういうことだったのか。
僕はいつも、変な心配を、勝手にしてしまっていたんだ。
「分かりました。妹さんのお願いなら、断ることはできません。僕も仕事の合間にお会いしたいです」
「え?でも……」
「僕も一目見た時から、洋子さんに惹かれていたので。まずは友だちとして、ですが、よろしくお願いします」
「……分かりました。今後とも、よろしくお願いします」
以前の僕なら、こんなこと、考えもしなかっただろう。
ヤマタノオロチのウイルスのおかげ、と言っては何だが。
生きる希望を見つけることができたかもしれない。
言葉は時に、人の心を傷つける。
でも僕は、人の心を癒すために、言葉を使いたい。
おしまい。
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